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熊谷陣屋(くまがいじんや)

源平・一谷の合戦、義経の制札に託された密命とは、無情な身代わりストーリー

本外題:

一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)

カテゴリー:

時代物

物語の出自:

一谷嫩軍記は1751年(宝暦元年)12月大阪の豊竹座で初演された人形浄瑠璃です。歌舞伎では1752年(宝暦2年)に江戸の中村座と森田座で上演されました。源平動乱期の一谷合戦(いちのたにのかっせん)が舞台で、熊谷直実(くまがいなおざね)が平敦盛(たいらのあつもり)を討つ話と、岡部六弥太(おかべろくやた)が平忠度(たいらのただのり)を討つ話の2つのストーリーを持つ全五段続です。

作者は並木宗輔(なみきそうすけ)で、全五段うち三段目まで書き絶筆します。残りは並木宗輔の死後、合作で書き足されています。宗輔といえば、一時期、並木千柳(なみきせんりゅう)と名乗り『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』などの浄瑠璃三大名作を(合作)で世に出した人です。

現在の歌舞伎では熊谷と敦盛が登場する二段目「陣門(じんもん)」「組討(くみうち)」、三段目の「熊谷陣屋」だけが上演されています。

ストーリー・短く言えば:

源平合戦の一谷の戦を前に、主君から謎をかけられる武士。それは「そなたの息子を身代わりにして、平家の若武者を助けよ。」という密命だと読み取ります。武士は自らの手でかわいい息子の命を奪ってまでも主君の命に応えます。忠義と親子の情との板挟みで苦悶する姿が描かれています。

主な登場人物:

熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)
義経の配下の武士。
相模(さがみ)
直実の妻。小次郎の母。
小次郎(こじろう)
熊谷小次郎直家(くまがいこじろうなおいえ)。直実の子。
藤の方(ふじのかた)
平敦盛(たいらのあつもり)の母。

※熊谷、相模、藤の方の関係は、16年前にさかのぼります。熊谷は後白河院の御所警護する武士だったが、そこで女官の相模と許しを得ずに結ばれます。それが露見して処罰されるところを藤の方の口添えにより救われます。直実にとっては藤の方は恩人。その年に相模は小次郎を、藤の方は敦盛を生みます。

白毫の弥陀六(びゃくごうのみだろく)
石屋だが、実は弥平兵衛宗清(やひょうびょうえむねきよ)。
昔、囚われの身の頼朝と義経のまだ幼い兄弟の命を救った平重盛(たいらのしげもり)の家臣。重盛の死後は石屋になって平家一門のの供養をしていた。

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ストーリー・あらすじ:

前段

熊谷直実は主君・源義経(みなもとよしつね)の命を帯びて、一谷の合戦へ向かいます。その際に、熊谷直実は義経から「この桜の若木の枝を一本折った者は指一本切り落とす」という制札(せいさつ:禁止事項を布告する立札)を授けられます。この制札の文言から直実は「平家の若武者・平敦盛を助けよ。(敦盛と同い年の)そなたの息子・小次郎を身代わりにするから、息子の命を義経に差し出せ」という密命だと読み取ります。

なぜ義経は平敦盛を助けたいのかといえば、平敦盛は後白河法皇のご落胤なのです。後白河法皇の寵愛を受けた藤の方との間でできた子。後白河法皇は敦盛を天皇にしようとも考えていたといいます。義経は皇統の血をひく敦盛を死なせてはならないと考えました。

陣門(じんもん)

須磨浦(すまのうら)の平家方の陣屋。その出入り口となる陣門に、熊谷直実の息子、若武者・小次郎が一番乗りで現れ、ひとりで陣内へ切り込んでいきます。後から、父・熊谷直実が駆けつけ陣門の中へ息子の後を追っていきます。ほどなく熊谷直実は小次郎を抱えて自分の陣屋へ引き上げます。
替わって平家の陣屋からは平敦盛が討って出て来ます。

組討(くみうち)

一谷の合戦に敗れた平家は、沖の船へと逃げて行きます。船の方へ馬を走らせる平敦盛を、熊谷直実が呼び止めて一騎打ちを挑みます。実はこの敦盛は、小次郎が入れ替わったもの。組み敷いてみるとそこは子の親、躊躇して見逃そうとしますが、それを源氏方の平山武者所(ひらやまむしゃどころ)に見咎められ、やむなく敦盛ならぬ小次郎の首を討ち落とします。

そこに敦盛の婚約者・玉織姫(たまおりひめ)が現れます。玉織姫は平山武者所の横恋慕を拒んだために切られ、瀕死の重傷を負い倒れていました。敦盛が討ち取られたことを聴き、残された力を振り絞って起き上がります。熊谷直実は駆け寄り、もはや目も見えない玉織姫に敦盛の首を抱かせて名残を惜しませます。息絶えた玉織姫と敦盛の胴体を海に流します。

熊谷陣屋(くまがいじんや)

一谷の合戦後の熊谷直実の陣屋。熊谷直実が戻ると、妻の相模が息子小次郎の様子を案じて鎌倉から来ています。直実が相模に敦盛を討ったと話すと、突然背後から女が現れ直実を切り付けます。組み伏してみると、それは鎌倉の武士・梶原景高(かじわらかげたか)に追われてたまたま逃げ込んでいた藤の方だとわかります。昔の主君筋で恩義のある藤の方。手を離して平伏する直実。藤の方と相模は敦盛をなぜ討ったと熊谷に問い詰める。直実は戦場のことなので仕方ないと答えるばかり。その代わりに敦盛の最後の様子を、身振り手振りを交えて藤の方と相模に丁寧に物語ります。

熊谷直実が奥へ下がると、相模は敦盛の供養にと藤の方に敦盛の形見の笛を吹くよう勧めます。藤の方が笛を吹くと、障子に人影が映るではありませんか。藤の方は敦盛の幽霊か思い障子を開けますが、そこには敦盛が着ていた鎧兜が、鎧櫃(よろいびつ)の上に置かれるばかり。藤の方と相模は切なさに涙します。

熊谷直実が敦盛の首を持参して義経のもとに行こうとします。その時、御大将の義経が現れてその場で首実検となります。熊谷直実は義経の前に首桶と義経より託された制札を並べ、制札の文言にしたがって首を討ったのだと述べ、桶を開けます。ちらっと見えた首を駆け寄ってよく見ようとする相模と藤の方。ところが熊谷直実は制札を振り、二人を近寄らせません。実は首は小次郎のもの。義経に見せるまでは誰にも見せられないのです。義経は首を検分し、「敦盛の首に相違なし。よくぞ討った。縁者にその首を見せて名残を惜しませよ」と。首を見て嘆き悲しむ相模。驚く藤の方。熊谷直実は主君の意に沿っていたのだとわかり安堵します。

陣屋まで来ていた梶原景高が、直実と義経との首実検のすり替えを鎌倉の源頼朝(みなもとのよりとも)へ注進しようとしますが、弥陀六が石のみを投げて梶原を殺し封じます。義経は、幼い頃の命の恩人、弥平兵衛宗清だと見抜き、敦盛が隠れている鎧櫃を与えて旧恩に報います。

熊谷直実は、息子を失った悲しみ、武士道の無情さを悟り、出家して小次郎のあとを弔うため旅立ちます。

見どころ:

● 敦盛と小次郎の入れ替わり

敦盛と小次郎は「陣門」で入れ替わります。熊谷直実が連れ帰ったのは小次郎でなく敦盛であり、残ったのは小次郎なのです。

「組討」で討つことになるのは敦盛になりすました小次郎。熊谷直実は周囲に悟られないように敦盛の首、実は息子の首を取らなければなりません。熊谷直実と敦盛のやり取りには秘めたる親子の情がにじみ出てきます。

● 制札の大見得

義経が謎掛けするように渡された制札に、熊谷直実は推測して答えを出さないといけませんでした。果たして息子を身代わりにすることが正解なのか、それは恐ろしく不安であるはずです。息子を手に掛けてまで行った苦労を考えたら、義経の答えを聴くまでは、小次郎の首に相模も藤の方も近寄らせて事実を暴露されるわけにはいかないのです。熊谷直実は制札を振り大見得を切って二人を制します。義経から「敦盛の首に相違ない」という言葉を聞いて安堵します。と同時に息子を失った悲しみと虚無感がこみ上げてきます。

●「遠見(とおみ)」の演出

歌舞伎独特の演出技法を言います。大人の役者と子役が同じ衣装を着て登場しますが、熊谷陣屋でいうと、近場の浜辺で切り合うシーンでは大人の役者が演じ、馬に乗って海に出て遠く沖で切り結ぶ場面は子役が演じます。子役は馬の形のぬいぐるみのようなものを腰につけて波間を動きます。大人と子供で遠近感を出す巧みな演出です。

●「幕外(まくそと)の引込み(ひきこみ)」

武士の世の無情を悟り、年若い愛する息子を失った虚無感に溢れる熊谷直実。出家して旅立ちます。その幕切れの場面では先に本舞台の幕は引かれ、花道に熊谷直実ひとりが残されます。人物をより際立たせる「幕外」が使われています。

名台詞:

(幕切れの引き込みの台詞)

『 今ははや何思う事なかりけり、弥陀の御国に行く身なりせば・・・あ、十六年はひと昔、あ、夢だ夢だ』

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